歯科医が日常診療の中で、しばしば質問を受け判断に困るのは、妊婦の歯科診療に関する事である。歯痛は耐え難い苦痛であり、この痛みを取り除くことはただでさえ精神的に動揺しやすく、神経質にもなりやすい妊娠・分娩期においては急務である。
しかしながら、その反面、母体や胎児に対する影響を恐れるあまり、その積極的な検査・治療が不十分であったり、患者自身が歯科受診自体を我慢したりすることが、重症化した歯科合併症の併発などの原因となりうる。
そこで、歯痛を乗り越えるための正しい知識と、この苦痛から逃れ、かつこの苦しい痛みを未然に防ぐにはどうしたらよいか、具体的に、妊娠中に使用してかまわない鎮痛剤、抗生物質の種類、さらに妊娠中の歯科レントゲン検査が安全であり、特に問題がないことをまとめてみた。
1)妊婦の歯は溶け出さない
妊娠中に虫歯が増えたとか分娩を経験するたびに、歯が悪くなったと訴える婦人は多い。母胎のカルシウムが溶け出して、胎児の骨格になるわけではない。妊娠中の生理学的な変化は、歯にどんな影響を与えるのであろうか。
虫歯の保有率は妊婦の方が非妊娠時に比べて明らかに高い傾向にある。その原因としては、妊娠による内分泌機構の変化や、妊娠中のビタミン新陳代謝の変化、妊娠中の唾液のpHの変化、唾液分泌量や粘度の変化。胎児の成長に伴うカルシウム必要量の増加などが考えられる。しかし、最も重要な事は妊婦の口腔衛生上の不注意が虫歯や歯肉炎を起こす原因である。妊娠初期にはつわりが80%近くの妊婦に起こる。特に臭いにより嘔吐が誘発される事が多いため、ハミガキのペーストの臭いを避けるため、ブラッシングをしなかったり、その回数が少なくなったりする。また、妊娠中期の以降の食事回数の変化や不規則な食事で口腔内のケアが不十分となる。従って口腔内は不潔になりやすく、口腔内細菌が増殖し歯石も沈着しやすい。つまり、妊娠初期から口腔内の清掃や、歯の衛生につとめる重要性を妊婦に啓蒙すべきである。保健福祉センターで母子手帳を受け取るときの歯科検診の短い時間程度では、そこまでの説明はなかなか難しいと思われる。そういう意味では最近、歯科医師会から配布された妊婦の歯科検診のパンフレット配布は、各産婦人科診療施設でも大変役に立っている。
2)女性を見たら妊娠と思え
歯科診療所でも、妊娠かどうかを問診で確認することは重要であることには間違いないが、患者自身が妊娠を否定しても(自分自身では妊娠してないと確信していても)妊娠していることはよくあることである。月経周期が28日前後と一定であり、基礎体温を間違えることなく記載していれば、妊娠を推定することは難しくないように思えるが、多くの産科医が経験しているように、患者本人の思い違いを含めて、思いがけない妊娠症例というものは、必ず存在する。従って、本来ならば、妊娠反応検査を全例に施行することが望ましい。
また、妊娠週数の数え方が、妊娠をしていない時期(妊娠0週0日から妊娠3週6日頃まで)からカウントされることが、妊婦への薬剤投与時期やレントゲン検査の理解を面倒にしている。
最終月経の開始日を妊娠0週0日と数えるが、この時点では本当は妊娠は成立していない。妊娠2週0日前後に排卵が起こり、この付近での性交渉でうまくいけば卵管膨大部での受精が起こる。市販の妊娠反応が陽性となるのは、受精卵が卵管を降下して子宮内に着床し、胎盤の元になる絨毛組織がゴナドトロピンを産生し始めてからである。受精後、10日目頃には着床するのであるから、予定の月経が遅れている婦人に関しては、常に妊娠を考えるべきである。月経が不順な婦人や、ストレスなどのために今周期だけ排卵日が変化することは、生物学的にあり得るので本人の意思を確認して、妊娠反応をするかどうかを決める。
3)妊娠初期の注意
胎児の奇形に関係する妊娠週数妊娠4週から妊娠12週までの間は、器官系性において重要な時期である。嘗てのサリドマイド薬害におけるアザラシ症の詳細な検討などから、絶対的な器官形成期(絶対感受期)は受精19日から37日(妊娠33日頃から53日頃)といわれており、この時期の投薬は過敏性が高いために避けた方がよい。受精した日がわかりにくいために、基本的には妊娠12週ぐらいまでは薬物の投与は慎重にすべきである。その後、妊娠4ヶ月以降の薬剤投与に関しては、胎児毒性が問題となってくる。
これらを通じて患者に説明しておくべき点は、①自然界での奇形の発生率は3%ほどあり得ること。②たとえ催奇形性があると判明している薬剤でも、その発生率は通常の妊娠での奇形発生率を2%ほど高めるだけであり、一般の薬剤が胎児に奇形を起こすことはほとんどないことを説明しておくべきである。
4)薬剤投与の危険度評価
添付文書、FDA薬剤胎児期県分類(表1)、虎ノ門病院基準、オーストラリア基準、インターネット、妊娠と薬剤情報センターなどいくつもの危険度評価基準があり、年々販売される薬剤により改訂、改正、改変が繰り返されている。新しい情報を常に取り入れるよう気配りが必要と思われる。
5)催奇形性の強く疑われる薬剤(表2)
6)妊娠している婦人に投与しても安全と考えられている薬剤
抗生剤は、原則としてペニシリン系とセフェム系、クラリスロマイシン系、アジスロマイシン系が安全である。
解熱鎮痛剤に関しては非ステロイド系鎮痛剤は使用しない。
特に妊娠24週以降の投与で子宮内胎児死亡を起こした例がある。使用可能なものはアセトアミノフェン。湿布薬はセルタッチのみ安全に使用可能である。
7)妊娠と放射線検査
1960年代の初めには妊娠中の婦人のX線検査が大問題であった。当時の医学では「胎児、特に妊娠初期は細胞分裂が盛んであり、分裂の盛んな細胞ほど放射線に弱い。」と考えられていたので、妊娠中のX線検査を受ける事は誰だって「危ない事」、「いけない事」だと考えていた。しかしながら、X線検査を必要とする女性は少なくなく、検査の前に「妊娠の可能性はないですか?」と質問したところで、いちばん細胞分裂の盛んな妊娠直後は本人に聞いても分からない。排卵が起こって、受精するのは月経開始後10日以降なので、絶対に妊娠していない時期に検査を限ろうとするならば、チャンスは月経の開始から10日間だけとなる。そこで女性の下腹部の検査は、月経開始の後10日間にというルール、「10日間規則」ができた。
この「10日間規則」は1970年代には徐々に緩められ、1980年半ばには、アポトーシスという機構が働いて奇形は発生しない事が分かってきたので、事実上取り消された。あるいは発生する場合でも、その線量は案外と大きい事が分かってきた。奇形発生の最小線量としては、1986年の国連科学委員会報告書は、受精後1日は奇形の発生なし、奇形が発生するのは、受精後14日から18日で250ミリグレイ、50日で500ミリグレイと報告されている。一般的なX線検査で胎児が浴びるのは、大きく見積もってもせいぜい10ミリグレイ程度であり、慎重に考えても「10日間規則」にあてはめる必要がない事が明らかとなった。
これだけですむ話ならば、何も問題はなかったのだが、この一連の知識の変遷の中で、「X線検査を受けると奇形児が生まれる」という類の話に、社会は異常なほど敏感に反応した。そして、「妊娠に気がつかないでX線検査を受けてしまったら、奇形児が生まれるかもしれないから、人工妊娠中絶術を受けたほうがよい。」という間違った知識が定着してしまった。
今では歯科診療でのX腺検査も含めて、一般的なX線検査では奇形児が生まれる事はないことが明らかとなった。「妊娠に気がつかないで一般的なX線検査を受けてしまっても、奇形児が生まれることはないので、人工妊娠中絶術を受けることは全く必要ではない。」
文献)1)妊娠と薬 佐藤孝道 じほう
2)妊婦と薬物治療の考え方松田静治 Van Medical
3)放射線と健康 舘野之男 岩波新書
4)研修医当直御法度第3版 寺沢秀一 三輪書店
5)周産期の薬の使い方 金岡毅 新興医学出版
6)周産期医学 第20巻 東京医学社